夏休み講座
「成田の歴史と文化」 
ー校歌に出てくる偉人 五郎と晴湖ー

成田小の人なら知っておきたい。成田地区の人なら知っておきたい 成田の歴史です。

校区連絡会 稲村義雄先生に 教えていただいたことを中心に掲載しています

まず 成田小学校の校歌の1番の歌詞を載せます

作詞 佐々木 英 夫     作曲 荒 井 敬 正
1 
長い歴史の わがうぶすなよ  
御祖五郎の 遺徳をしのび
くしき画工 晴湖をほこる  
わらべ われらの 学舎成田

その1 校歌にでてくる偉人


御祖 五郎の 遺徳をしのび

五郎とはいったい誰の名前なのか?

卒業生に聞いて 校歌が歌えても正確に言える人がいないことがあります。
やはり 校歌にこめられた思いがあると思います。


いったいこの五郎さんとは誰なのでしょう。

答えは歴史の人物にありました


くしき画工(えだぐみ) 晴湖をほこる

晴湖とはいったいなんでしょうか
ご存じの方もいますが、結構知られていないのです。

湖の名前でしょうか?

これも人物です。

しかもこちらも歴史上の人物です。


さて その2人の 正体は、、、、






その2 五郎と晴湖

五郎は 成田五郎のことです

晴湖は 奥原晴湖のことです

校歌に出てくる 五郎と晴湖は成田ゆかりの偉人なのです。

では 成田五郎とはどんなひとだったのか

文献から出してみたいと思います

成田五郎の前に この成田氏について 紹介します。

成田氏
成田氏の祖先はなんと あの大化の改新で有名な 藤原鎌足(中臣鎌足)と言われています。

鎌足の子孫 藤原助高が 移り住み成田氏と名乗ったことから始まる。以後570年の長きにわたり栄えた。
成田氏初代「助高」には四子があり、長男「助広」は成田氏を継ぎ、次男「行隆」は別府氏を、三男「高長」は奈良氏を、四男「助実」は玉井氏を名乗った。
                                                                   稲村義雄氏 講演資料より



そして 五郎は これらの系図をみながら 12代(成田氏8代)「家時」であることがわかります

この「家時」は何をしたのでしょう。ずばり菩提寺として 「龍淵寺」を作りました。
そして「上之村雷電神社」も再建しました。

家時は 神仏を尊び、文武両道に秀で一般の人々を大切にされ、この頃「成田氏」は大いに栄え、家時は「中興の祖」と言われました。

五郎=「成田家時」なのです。





その3 五郎の功績

成田五郎家時は 成田氏8代の武士です。
「中興の祖」と言われています。 中興の祖とは 時勢にあって再び一家を栄えさせた先祖という意味です。

成田五郎家時は 文武両道の秀で人々をいつくしみ、武蔵守となった人です。
武蔵とは今の埼玉東京神奈川 守とは役所の事務を総裁する長官のことです。

1368年に生まれ 1420年 53歳で生涯を閉じました。


関東八家
1416年 相模川の合戦があったとき 別府奈良玉井氏などの一族と戦い 大変てがらがあったので足利持氏より
恩賞を貰いその名は 関東八家に加えられました。 そして従5位の下の位をいただき 左京亮(今で言うと京都市長)となりました。



上之村神社の再建をする
1411年
龍淵寺を開基する
成田氏の菩提寺とする。

開基とは開山ともいい 一寺一山の創建者をいう 開基と開山は同じ意味です。

五郎=家時は すぐれた武士であるとともに 成田地区を栄えさせるために 神社や寺を建設する費用を出して地域のために
頑張っていた人なのです。



(稲村義雄氏 歴史資料より)

次回は 晴湖のことです

その4 奥原晴湖と成田との関わり

 奥原晴湖 江戸から大正時代の女流南画家は、成田地区とどのような関係があるのでしょうか。
それは奥原晴湖の生涯に関係があります。

池田繁右衛門政明の四女として古河藩に生まれ、縁戚にあたる、谷文晁門下の枚田水石に師事し、画力を研鑽しました。また古河藩家老鷹見泉石とも親交があり、大きな影響を受けました。江戸へ出るために父政明の妹の嫁ぎ先である奥原源左衛門の養女となり、号を晴湖としました。山内容堂や木戸孝允らと親交があり、南宋文人画に一家をのなかでも一番の名声を博しました。明治24年に古河藩領のあった熊谷市上川上に隠棲しましたが、作品への情熱は高く、ますます円熟し、多くの傑作をのこしました。その門人には奥原晴翠、滝脇晴華、渡辺晴嵐といった人がいます。
(熊谷市ホームページ

熊谷市について 熊谷の歴史探訪 熊谷市の先覚者 奥原晴湖(おくはらせいこ)


奥原晴湖は女性です。

この写真をみるとまるで男性の様です。

その生涯は、実にユニークです。

(稲村義雄氏資料より)
1837年8月15日に古河藩で生まれる

幼少の時から 古河藩の家老 鷹見泉石 に学問を学ぶ。

(小さい頃から 剣術なども学んでいたようです。男勝りな行動でした。)

17才の頃から 古河藩 画人の枚田水石に絵を学ぶ

1865年 29才で本格的な画家を目指して江戸に出る。(このとき女性が藩をでることは禁止されていることから、奥原家に養子に出れ
ば可能と言うことで奥原家の養子になったそうです)

上野にすむ。

画室「墨吐煙雲楼」を開いて 東海晴湖と号す。

1868年 明治維新時 上野彰義隊の難を避け、上川上(成田地区)へ疎開する。二ヶ月稲村家の離れに住む。
4月 東京に戻る この頃から山内容堂、木戸孝允等政界の名士の知遇を得て名声を上げる。

 木戸孝允と奥原晴湖は関係が深かったようです。

明治4年 男子の断髪令がでると 晴湖も断髪してザンギリ頭になる。
明治5年 宮中皇后陛下の御前で揮毫する。

多くの政治家・文人墨客と交流する。
豪快な筆致の作品で多くのファンに愛蔵される。

明治15年 南画会は フェノロサの講演「日本美術論」による文人画排斥の影響を受ける。

熊谷への移住を決意する

明治24年 熊谷の川上に隠棲する
江戸東京時代の豪快な筆致から一変して精緻な綿密画が多くなる

熊谷時代に多くの傑作を製作する。

大正2年 7月28日 77才で没する

晴湖は様々なエピソードがありました。次回はそのことを、、、、、

その5 奥原晴湖のエピソード


奥原晴湖略年譜より

養女になってでも 江戸に出たい


元冶元年 28歳 江戸遊学のために関宿藩の奥原源次佐衛門の養女となり江戸を出る

このころ藩から女性がでることは許されないためにとった手段 晴湖の意志も固いが
周りも応援してくれるほどの才能 人徳 そして 養女はわずか4日間だったといわれている。


男子に断髪令がでると 自分もザンギリ頭

明治4年 八月男子の断髪令がでると晴湖も断髪して
ザンギリ頭になる
男のように見えるのはそのように見せていたこともあるようで
それでも、たくさんの人とかかわりが持てた。晴湖の家柄そして性格が
そうさせていたようである。

女子ザンギリ第1号ともいわれている。

明治5年には ザンギリ女取締りの対象になる。
それでもこの年皇后陛下の御前で揮毫することになる。


木戸孝允の病気見舞いに行く
明治維新のころの政界とつながりがあり、特に木戸孝允とは仲が良かった。

lhttp://www13.ocn.ne.jp/~dawn/index.html
木戸孝允館では 木戸孝允をめぐる人々で 17 晴湖と木戸孝允の友愛が書かれている。
これはなかなか興味深い話です。



南画が排斥されると 写実作画も描く
皮肉にも晴湖の描いていた南画は フェノロサの講演を期に
排斥されることになる。

明治15年 南画会はフェノロサの講演「日本美術論」による文人が排斥の影響を受ける。

晴湖も写実作画を行う。

しかし最終的には 欧化文明や洋画趣味も東京を去って 熊谷上川上に隠棲する。明治24年


晴湖は努力家で行動的な女性でした。大きく変化した時代の中でさまざま人と出会い
自分を高めていったようです。そして、最後は自分の作品に没頭し、終焉の地を熊谷上川上に選んだようです。


次回は いよいよ 晴湖の作品です。






その6 奥原晴湖の作品

奥原晴湖の作品と思われるものです

南画(中国の影響を受けている絵です)





その7 成田小学校にある成田氏の系図



成田小学校には、大正時代に写し書きで作られた「成田氏系図」があります。これは成田小学校の宝でもあります。
成田氏が藤原鎌足から始まっているところがしっかりのっています。


そして 成田氏を名乗り始めた 成田助高

そして成田五郎家時です

家時です

五郎としっかり書いてあります。

すごいものが学校にあります。

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